英語をペラペラと話せる人のことを妬ましいほどまでに羨ましいと思いますし、他の外国語が出来る人のことも尊敬してきました。多国語を操る人などいくら尊敬しても足りないくらいです。それでタイトルに書いてあるような発言をされたことがあるという人の話を聞いて驚いたことがあります。
トライリンガル
その話を聞いたのはいわゆる内モンゴル自治区出身の女性からです。その方はもちろんモンゴル語と標準中国語(北京語)と日本語が話せ、一時期同じ職場で仕事をしていました。日本人が生の魚を食べるのは知ってたけど、神戸で牛の刺し身を出されて驚いたとか、うちの国の偉い人の名前がなぜ料理の名前(ジンギスカン)になってるのか理解できないとか、雑談中に出てくる話をいろいろ聞いているうちに、内モンゴル自治区にも独立派の人がいるという話題が出ました。
標準中国語
話の流れからすると、そのとき話題に出た独立派の男性は標準中国語(北京語)を習っていないか、習っても使うことを拒否してたのでしょう。その女性は独立派の男性から「あなたは中国語を話せるということを恥じなければならない」という意味のことを言われたことがあるそうです。単純に言葉は多く知ってる方がいいじゃないかと傍目には思うのですが、多分、年々強化される同化政策などのこともあって、そう簡単に言葉だけのことでは済まない話だったのでしょう。
最後の授業
多分読んだことのある人も多いかと思うのですが、フランスとドイツの国境付近にある元々ドイツ語(あるいはドイツ語の方言のような言語)が優勢だった地方が歴史の中の一時期にフランスの支配下にあり子どもたちはフランス語教育を強いられていました。そして戦争の結果、今度はドイツに帰属することになり、フランス語教育最後の日を迎えます。そして翌日からはその土地に本来ふさわしいドイツ語の教育にとなるというストーリーの筈なのに、なんとなく話が裏返ってるように感じる有名なフィクションがあります。
これに対する感想もドイツ語とフランス語両方学んで両方できる方が便利でカッコいいという風に言うと、空気が読めないと非難されるのかな?
適性言語
日本では戦中に敵性言語として英語などを禁じるという愚かなことをしました。むしろ敵の言語なら敵を知るために味方の言語以上に真剣に学ぶべきだったのでしょう。アメリカは戦時中に日本語が出来る人を促成するために人も金もかけたそうなので、やってたことは正反対ですね。今は英語を自由に学んでも良い時代ですが、実用面からするといわゆる敵性言語を学んだ方が専門性の高い仕事につくには有利かもしれません。
そういうことを考えてみるに、上記のモンゴル独立派の青年こそが中国語を勉強すべきだったのかもしれませんが、難しい問題です。
学んでも非難されない
少なくとも、今の日本で英語を勉強していても、特に非難されることもないし役に立つ技能だとみなされますので、実にありがたいことです。これは教科の中でもかなり珍しいものではないでしょうか?世の中には数学ができないことや国語ができないことをむしろ自慢げに言う人すらいるのに、英語の場合は負け惜しみを言う人はいても、英語が話せないことを自慢そうにする人あまり見かけませんので。
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